正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:斉彬公の場合

法華講信者のブログにはこれみよがしに、この信仰を島津斉彬も求めたと自慢げに書いていますが、島津家の神社とか斉彬公を祭神とする神社を見たらビックリでしょう。

島津斉彬(1809~1858)薩摩藩主で篤姫の養父。薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人。西郷隆盛などの明治維新に活躍する人材を育成。没後文久3年(1863年)には勅命で照国大明神の神号が授与され照国神社の祭神として今に残っています。

他に島津家代々の先祖を祀る鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)にも不仲であったとされる島津斉興公と斉彬公父子も共に祀られている。

さらに島津家関係の神社が鹿児島県には多く散在しています。そのたくさんの島津の神社を紹介したホームページがあります。 これらを勘案してもとても正宗信仰に染まっていたとか思えない有様です。

斉彬公のウィキペディアを見ていただければわかりますが、「養女・篤姫とともに静岡県富士宮市大石寺・遠信坊(日蓮正宗総本山)の檀越であったが、大石寺の教義に随順し切れたかどうかは研究の余地を残す。」とあります。

という根拠は、薩摩藩には文化3年(1806)に19巻の『薩藩名勝志』という書物が出版されたほど、かつて歴史ある寺社が多数存在していたはずなのだが、廃仏毀釈で1066あったすべての寺院がひとつ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられてしまったとあります。それも斉彬公の在世にこういうことが行われたようです。

羽根田文明氏著作の「仏教遭難史論」には「斉彬公も、詔に対し幕令に随い、梵鐘を引き揚げて、寺院の廃止を実行せられたのである。故に鹿児島藩の寺院処分は斉彬公から出たのである。」とあり、平田篤胤の感化を受けて寺は殆どが神社に変えられたようです。日蓮正宗は鹿児島には進出していませんでしたが寺があれば当然以下のような有様になったでしょう。

久保田収氏の「薩摩藩における廃仏毀釈」という論文には、島津斉彬の側近であった市来四郎の談として、次のような発言が記録されています。

「寺院を廃して、各寺院にあるところの大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類も許多の斤高にして、これを武器製造の料に充て、銅の分を代価に算して、およそ十余万両の数なり」


「僧侶も真に仏教に帰依していた者はなかったようで、おおむね還俗することを喜んだそうな」


「仏像の始末については、石の仏像は打ち壊して、川の水除などに沈めました。今に鹿児島の西南にある甲突川という川の水当のところを仏淵とよびます。すなわち仏像を沈めたところでござります。木の仏像はことごとく焼き捨てました。」


「大寺の大門とか楼閣とかを打ち壊すに、大工人夫共が負傷でもすると、人気に障りますから、大いに念入りに指揮いたしました。大工人夫共の屋根から落ちて負傷したこともなく、滞りなく打ち壊しました。その頃の巷説に、昔の人は大寺だの大像だのを造立して、金銭を遣い、丹精もこらしたもので、それだけの効験があるものと思うたが、今日打ち壊してみれば、何のこともない、昔の人は大分損なことをせられたものだなどと言いました。仏というものは畢竟弄物みたいなものであったという気になりました」

どう考えても敬虔な仏教徒とは思えませんけどね(笑)

こういう歴史的な経過を無視して日蓮正宗の信者であったと豪語されているのは、歴史の実よりも単に薩摩藩藩主のブランドが欲しいだけでしょう。