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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:板倉勝澄公の場合

大名で大石寺信仰だったと言われている人が、板倉勝澄さんですね。

○ このときに、日因上人が板倉勝澄公を折伏なさったということが書いてありますね。

【堀上人】 板倉は、例の、板倉周防守と通稱している徳川初期の京都の所司代をやつていた、あのやかましい板倉勝重公の子孫です。その本家ですね。板倉の宗家です。板倉は幾軒にも分れていますがね。(大白蓮華・堀上人に富士宗門史を聞く)

この板倉公が大石寺五重塔建立時期に総工費の4分の1にあたる1000両を寄進したようです。こちらのブログに詳細がありますけど、 板倉公が島原の乱で功績を上げたそうです、ところがこの島原の乱で戦死した総指揮官・重昌さんの菩提を弔うために板倉一族を代表して、100年後に勝澄さんが五重塔・建立寄進に参加したのがこの寄進の動機だそうです。

で、普通ならそれほどの信仰心があればせめて分骨が大石寺に有ってしかるべきですが、こちらのページで確認できますように、曹洞宗のお寺に勝澄公は備中松山藩主 初代として一番に墓を立てて、その後家督を継いだ何人かがこの愛知県西尾市貝吹町の長円寺に葬られています。

大石寺にも勝澄公の墓所がありますが、おかしいですね、こちらにも寺院建立など勝澄公の貢献を顕彰することが曹洞宗大本山永平寺直轄別録所格式安正寺にありますwww。

大石寺の住職だった日因さんはしっかりと曹洞宗は「禅天魔」と教えなかったんでしょうか(笑)

しかも寛延4年(1751年)9月2に長男の勝武に家督を譲って隠居、剃髪した折には勝澄公は出家名を源承と名乗ったそうです。どうみても禅宗っぽいですね。

多くの大石寺に関係した人のように、何故か個人の大石寺信仰は途中挫折して、他宗に寺建てたり寄進したりして滅後は別の菩提寺に葬られている現実は大石寺信仰の人にはありがちのパターンですね。