正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

神社は不拝の対象なのか【3】

大石寺開山・日興の教化を受けていた南條家は南条七郎左衛門(時光の父)は建治元(1275)年の「六条八幡宮造営注文」という書物にその名前が記載されており、八幡宮の造営に関わっていたことが残されています。

南条家は「得宗被官」と呼ばれる得宗直下の御家人で、幕府の本拠地・由緒地である鎌倉・伊豆・駿河にわたって勢力を誇った一族で、「吾妻鏡」にもその名が見出せます。
当時の駿河地方は得宗領で、南條家は「天領の代官」ということで、その天領に関わる神社仏閣の造営修理は、とうぜん負担があります。

その同じような身分である波木井実長氏も荘園管理者(地頭)で、日蓮はその治める土地であった身延山に隠居生活をしてたわけです。

一、甲斐国波木井郷身延山の麓に聖人の御廟あり、而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細条々の事。
彼の御廟の地頭南部六郎入道法名日円は日興最初発心の弟子なり。此の因縁に依って、聖人御在所九箇年の間帰依し奉る。滅後其の年月義絶する条々の事。
釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。
次に聖人御在生九箇年の間停止せらるる神社参詣、其の年に之を始む、二所三島に参詣を致せり是二。
次に一門の勧進と号して南部の郷内のふくしの塔を供養奉加之有り是三。
次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。
已上四箇条の謗法を教訓する義に云はく、日向之を許す云云。此の義に依って去ぬる其の年月、
彼の波木井入道並びに子孫と永く以て師弟の義を絶し畢んぬ、仍って御廟に相通ぜざるなり。(富士一跡門徒存知事・伝日興筆)

赤文字部分は日興が身延山を去る際の理由を述べているのですが、 波木井氏にすれば濡れ衣みたいなもので、日蓮が九年在山した際は神社の修理を停止していたと強弁しています。

「祭祀や寺社の保護」は法(貞永式目)に定められた「公務」であった地頭がそれを怠慢すれば、地頭交代につながることは目に見えたことです。日興離山の言い訳の一番が、地頭公務である神社の参詣(あるいは視察か?)に始まったというのは、あり得ない事が理解できます。