正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

神社は不拝の対象なのか【まとめ】

日蓮遺文と近年の動向を元に大石寺の神社参拝の矛盾を指摘してきましたが、肝心のお釈迦さんの仏教では、神も六道の一つの存在で、国を守るとか仏典信仰の人を守るとか、大乗仏教で拡大された神のあり方では無いようですね。

Q:日本の仏教には『仏教の守護神』として堂々と祀られてる場合も多々ありますけど、それと同じような考えなのかなあと思うのですが。
 
A:まあ、守り神が。守ってくれるなら、ありがたい話じゃないの。その神々と言う生命に他の仕事がないの。暇があるなら、または人間のお供えがないと生計を立てられない貧乏であるならば、しっかりがんばってもらいたいね。
 しかし、「守ってくれる」とは非仏教的な概念だと一概には言えないのです。
生命と生命の関係の中で「守って上げる」も「守ってくれる」も通じるはなしです。(出来るかないかは別)(母は子を守ることはちゃんとやってはいますが、本当に守られますか)
 お釈迦様が名をあげた神々に守ってくれと願っても、「君達、先輩ではないか。後輩を守るのは筋(道)でしょう」という言い訳が成り立ちます。まるごとHindu教の神々を祀って守護神だ、といっても仏陀の思想の流れとは違うと思ってしまうのです。M教では風神、火神などもいるでしょう。(オマケに中国の龍もいます。)これらの神々は初期仏教では否定の対象です。


仏典で神(deva,devataa)、悪魔(maara), 神霊(yakkha)が登場するところで、それはどなたかの人間だと思って、置き換えて、読んで見てください。それでも仏陀が教えることの意味が通じると思います。(では試しに、キリスト教から、神と奇跡を抜けて読んでみてください。理屈が崩れるのです。)この差が仏教の神々に対する態度です。(神々について

初期仏典では神も我々と同じ変遷する存在で、功徳が尽きたならまた輪廻していく存在ですね。梵天勧請という物語はお釈迦さんが知り得た真理を説くべきか、説かざるかという心中の葛藤を描いているというのが近年の解釈です。

日蓮さんの時代では神は仏を信仰する人を守るとかいう物語が主流だっただけで、歴史を見ても信仰深い人が断絶したり、敵に滅ぼされたりとか当たり前のごとく有りますよね。

大石寺自体が長い歴史の中では極端な人材不足に陥り、貫首を他宗から呼ばねばならなかったり、幾度も火災にあったり、疲弊の極みにあったことは神と無縁であったことを証明していますよねw。

つまりは大石寺教義の神と実際は関係ないってことです。ベースの法華経は物語ですし、大石寺教学はその物語の上で成立してんですから。