正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:矛盾撞着

大石寺の板本尊は御利益たっぷりで、願って叶わないものはないというセールストークから勧誘は始まりますけど、ところが入信して暫く経つと。

信者向けの講演などでは僧侶は→「大聖人は『持妙法華問答抄』に、
「臨終已に今にありとは知りながら、我慢偏執名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下にかひなし。」(御書二九九㌻)
と仰せです。御本尊様への信心を軽んじ名聞利養に執着する人は、八風に侵されていることになり・・・」←と、信者へは暗に御利益に執着するのは諦めるように諭し、ただ信じる=成仏と、誰もあの世から帰ってきて体験発表できない事をいいことに利益信仰からの転換を強要、教団の言うとおりしないと堕獄と恫喝するようです。

釈迦におどしの言説なし 教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。

とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。

しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である。(精神科医の告発)

そうなんですね、やれただの板が日蓮だとか(フェティッシュ信仰)建物修復に金を出せば宿業が落ちるとか、信者には金や御利益に対する執着を捨てろと言いながら

僧宝であられ甚深の御法門をお説き遊ばされる、御歴代の御法主上人猊下を生身の仏様のように尊崇申し上げることが信心において大事です。(日蓮正宗寺院サイト)

と、ただただ教団の言うとおり、板+貫首カリスマ信仰への帰順を説くという矛盾が現在の大石寺信仰のようです。