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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:誓願のルーツを辿らない

大乗仏教は過去の遺物で末法に入れば何らの利益はない、と豪語する大石寺信仰圏ですが、その割に引用経典や証拠建てに大乗経典引っ張ったり、過去の暦の天台宗論者を頼りにするようです。先の四弘誓願などもその一つです。

誓願について天台大師は、『摩訶止観(まかしかん)』の第七に、
「発願(ほつがん)は誓うことである(中略)誓願を立てることによって行を持ち、初めて目的を達成することができるのである(趣意)」
と釈しているように、誓願は目的(仏道の成就)に向かって進むためになくてはならない決定心(けつじょうしん)です。
 また、信心修行する凡夫の立場から誓願という場合、この誓願の誓(せい)というのは、誓(ちか)いであります。これは何を誓うのかと申しますと、自分の心に堅く、しっかりと信心の志を固めて、御本仏に対してその信心をお誓い申し上げること、そこに誓願の誓という意味があるわけです。(誓願について・正宗寺院サイト

天台宗は過去の暦で現在は使えないと言いながら、しれっと天台大師の主張を使って、「誓願を立てることによって行を持ち、初めて目的を達成することができる」と、もっともらしく流用して述べていますけど、この誓願って実はこうなんですよね。

初期仏教が三学(戒・定・慧)戒によって身を修め、定によって事象を深く観察し智慧の力を得て・慧によって根本的生存欲(無明)を滅ぼし無明や渇愛から生じる煩悩を滅ぼし、欲望から生じる善悪の行為(業)を滅し、業を原動力とする六道輪廻から解脱するという修行観を大乗仏教は一足飛びに誓い(誓戒)を実行する力によって悟りを開くことが出来る大胆な易行化を広げた。
その中から波羅密行(六波羅蜜・十波羅蜜)が提唱され特に実行可能性の高い般若波羅蜜(プラージュナ・パーラミータ)静かに瞑想し、智慧の力を養う事を誓うが故に悟りに至るこれが一大潮流となり「般若教典群」が成立したのです。
「般若波羅密という誓いを堅固に徹し通した事による力によって」願望が成就する修行方法、真実の言葉を固く守ることで得られる現実化が大きな特徴です宮元啓一・般若心経とか何か:抜粋)

般若経典から始まった誓願という修行法をそっくりパクってそれらしく述べていますけど、さてこの誓願なんですが、これもまたパクリなんですよね。宮元氏の指摘があります。

大乗仏教は、ヒンドゥー教ジャイナ教から取り入れた誓戒を波羅蜜(はらみつ、パーラミター)や誓願(プラニダーナ)ということばで置き換え、在家中心の菩薩行〈ぼさつぎょう〉を宣揚しました。そして同時に、やはりヒンドゥー教ジャイナ教から取り入れた厳格な不殺生と菜食主義を取り入れました。(同著)

ね、釈迦が否定した外道の教えを一所懸命に釈迦の教えだと思ってやってたようです、しかも大乗に取り入れた際に、不殺生戒など戒を厳格に護ること前提ですが正宗系に至っては末法無戒ですからねw。

ということで、大乗は誓願を外道から流入→戒を守るお約束→日蓮末法無戒→正宗では言葉だけ独り歩き・・・もう何が何やらですね。