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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:最初から仏

大石寺では久遠元初自受用報身如来という宇宙の初めからいた仏さんを日蓮だと言い切ります。その根拠を日蓮の身に起こったある事件を以って発迹顕本したと豪語しています。

幕府に連行された大聖人は、佐渡流罪の判決を受けましたが、平左衛門尉は内々で大聖人を斬首刑に処することを図っていたのです。大聖人は夜半に鎌倉のはずれにある竜の口の刑場に連行されました。しかし、まさに刑が執行されようとしたときに、江ノ島の方から“まり”のような光りものが現れて、南東から北西の方向へと輝きわたったのです。兵士たちはこれに恐れ怖じて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)。

 これは、大聖人御自身の一代の弘教(ぐきょう)のうえから、極めて重要な意義をとどめる出来事でした。この出来事の意義について、大聖人は翌年に佐渡で著された「開目抄(かいもくしょう)」で、日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて……」と述べられています。「凡夫・日蓮は竜の口の法難の時に頸をはねられたのであり、今、佐渡に来ているのは日蓮の魂魄である」という意味です。
 ここに仰せの「魂魄」とは、日蓮大聖人の御内証(ごないしょう)として顕れた「久遠元初自受用報身如来(くおんがんじょじじゅゆうほうしんにょらい)」、すなわち宇宙本源の法である永遠の妙法と一体の永遠の如来のことです。
 大聖人は竜の口の法難の時に、名字(みょうじ)凡夫という迹(しゃく=仮の姿)を開いて、凡夫の身のままで内証に久遠元初自受用報身如来という本地(ほんち=本来の境地)を顕(あらわ)されたのです。これを「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」(迹を発<ひら>いて本を顕す)といいます。

で、鎌倉時代に再誕されてしばらくは凡夫のままでしたが、相次ぐ天災に危機を感じて久遠以来の法を胸中に隠し持たれて、その契機を待たれていたが、その契機こそが竜の口の法難だという物語です。

この物語を信者さんは信ずることが強信者の証だそうですけど、蛇の脱皮ではあるまいに、肉身が変化したり自覚が変わったりするなら、それはまだ環境に依存したもので、久遠以来の自覚があるなら、事件だの、きっかけだの何もなくともその正体を現せるでしょうに、そういう別視点の思考はないようですねw。